よめです。
昨日は妙栄寺一同、伊勢の日蓮聖人誓願の井戸のおそうじへ!
ここは日蓮聖人が伊勢神宮で誓願を立てる際、この井戸で水をかぶったと言われています!
三重県のお寺が輪番でお掃除をさせていただいていて、今月は妙栄寺の月。
あたたかい陽気で、最後はさっぱりきれいなお廟でお参りできました🙏
さて、今回はそんなお掃除を誰よりも張り切っていた娘の話です。
道中では車酔いでグロッキー状態でしたが、井戸に着くと私の横で手を合わせて「おてつだいにきました!」と宣言。
「ここは私がやるからママはあっち側ね!!」と大きいほうきを持って奮闘する姿に、成長したなぁと感慨深い気持ちになりました。
娘は4月から年少さん、息子はひとつ下のクラスに入園になります。
下の子が生まれてからというもの、やんちゃ盛りの二人の子供に翻弄され、立ち止まったり、落ち込んだり、まぁいっかと忘れてたり、大笑いさせてもらったりと忙しい毎日でした。(ブログの更新をサボったりね)
私的な見解ですが、お寺というところはお掃除や寺務などの「動」の働きと同じくらい、「静」の働きも重要視される場所だと思います。
ここでの「静」とは手を合わせる、お経を読む、静かに祈る、お上人の御祈祷や読み上げを受けるなどなどでしょうか。
そしてうちの子はこの「静」の働きがむっちゃくちゃ苦手!
少し前までは思っていました。
「寺務所ではお絵描きセットとかパズルで遊んで貰ってー」
「本堂では絵本でも読んでてもらえばいっか★」
とか。
いやいやいや、今となっては愚策の極みです。
お絵描きセットを持ち込めば寺務所の机や壁中に落書きしようとするし、パズルはばら撒く。絵本など読むはずもなく、本堂中を走り回ります。
(さすがに上の子はおとなしくなりましたよ(^-^;))
もともと、うちの住職はどこの子であっても「子どもを本堂で叱らない」というのが持論でした。
お寺というのは子どもにとっては退屈な場所です。
それに加えて行くと必ず怒られるとくれば子どもはお寺を嫌がってしまいます。
何故怒られるのか、どういう場所なのかを理解できるようになるのはかなり先の話。
なので大概のことは大人が目をつぶって、子どもがまた来たい場所になるように…
というのが妙栄寺としても共通の認識です。
『とは言ってもですね、お義父さん!』(よめ渾身の心の声)
お寺は檀信徒さんに祈りの場を提供する場。
妙栄寺は法要が月に2,3回はあり、そのたびに本堂を走り回る、パパ(副住職)に絡む、仏具を鳴らしまくるとくれば、さすがに私は叱ります。
そして落ち込みます。ああ、また怒っちゃった。。。みたいな。
しかもそれが年子で2人……
法要日には私も仕事があるので、早々にキャパオーバー。
そんなこんなで、「居間でDVDでも見て静かにしてて!!」というところに落ち着いていたのが昨今でした。
話が横道にそれまくりましたが、娘の成長の話に戻ります。
そんな娘が最近、仏飯を運ぶ際に仏様の前でぶつぶつと話すようになりました。
「ぷりきゅあのおもちゃがほしいです」
「おいしいお菓子が食べたいです」
など自分の願い事を言う日もあれば
「〇〇(弟)がお菓子をいっぱい食べれますよーに!」
「パパとママとおじいちゃんとおばあちゃんと〇〇が……うーん……いっぱい遊べますよーに!」
「まんまんちゃん(仏さま)もいっぱいごはん食べてね!」
など、ひとのことを想って手を合わせる日がときどきあるのです。
私はもう32歳ですが、この歳になっても法要のたび「カッコばかりつけてるなぁ」と自嘲することが多々あります。
お寺に嫁に来たばかりの時、法要でのお焼香の作法が分からず、夫である副住職に尋ねましたが、なかなか一度では覚えられませんでした。
困っていたとき副住職に「大事なのは心を込めることやから」と言われたのです。
それでも今だに『あ、お辞儀を1回飛ばしちゃった』『お焼香3回してたけどお義母さん1回やん!間違ってたかな』『ああ子どもがまた遊んでる……恥ずかしいなぁ』
なんて、形ばかり、カッコばかり。「心」が伴っていない日があります。
「型」は大事です。
神事、仏事、芸術など伝統的な文化の根幹は型にあり、型の継承なしに文化の継承は語れません。
でも、「心」の伴わない「型」はただの「形(カタチ)」。
娘はまだまだ「静」が苦手です。
息子に至っては皆無です。笑
でも、
こんなに一生懸命お掃除して、ぱっちん手を合わせて、自分の幸せと同じくらい、人の幸せを願う心がある。
これ以上いま親として何を望むことがあるだろうかと。
誓願の御井戸に静かにたたずむお廟はもちろん何も言いませんが、挫折だらけの私の子育てで結んだ小さな実を見つけた気持ちになりました。
日蓮聖人 ご誓願の井戸